スポンサード リンク

諏訪氏、武田氏と諏訪大社

諏訪氏は、信濃国諏訪地方の領主で諏訪神社上社の大祝(おおほうり)を代々にわたり司りました。諏訪明神をお祭りする神職を出す家だったのです。その出自は出雲神話の神・建御名方神(タケノミナカタヌシ)に始まると伝わります。武田信玄は諏訪氏の娘を側室にしましたがその子が武田勝頼となります。武田信玄の父は武田信虎といいます。武田氏は、新羅三郎義光にはじまる「甲斐源氏」の直系です。武田信虎は、14歳の若さで家督をつぎました。父親である信縄が死去したためです。このころの甲斐は、有力な武士が各地にテリトリーを持ち、名門であった武田家も、苦境に立っていました。信虎は、これらの有力武士(国人)を合戦によって次第に従えていきました。下剋上の時代に国を統一するのは容易ではありませんでした。当主の座について十二年が過ぎたとき、信虎は居館を躑躅ヶ崎(つつじがさき)に移しました。この館は、信玄も引き継いだわけですが、甲斐一国を統一するめどがたったことも一因であったといわれています。この二年後に信玄が生まれました。

信濃に攻め込んだ武田信玄

ちょうどこの時期、駿河の国から今川氏が侵攻する事件がおきました。この今川氏の侵攻も、信虎は見事に退けました。戦国大名は、家臣の奉公に対して領地を褒美に与えるので、信虎は、甲斐の統一がなると、隣国の信濃に攻め込みました。信濃には北条や今川のような強大な大名が存在しなかったので、ここに侵攻したのです。この戦いは長く続きました。そして信玄が21歳のとき、48歳となっていた信虎は、我が子の信玄のクーデターにより、自分の国から追放されることになるのです。甲斐源氏は、清和源氏の一流です。平安時代末から戦国時代にかけて、甲斐を支配しました。新羅三郎義光の三男、義清とその子、義光が常陸(茨城県)の武田郷から甲斐に流されたのが始まりといわれています。甲斐源氏は鎌倉幕府の御家人としても活躍しました。南北朝から室町時代にかけては盛衰を繰り返し、武田信玄の父、信虎の時代になってようやく甲斐一国を統一しましたが、信玄の亡きあとは武田勝頼の代で滅亡しました。信玄は21歳のときに父である信虎を追放しました。この事件は、上杉謙信も非難しています。

諏訪一族は全国に散らばった

上杉謙信は、「武田晴信(信玄)なる者、身五倫に背き、心百邪をさしはさむ。その父を追放し、もって恥を諸国に遺す」と手厳しく非難しています。しかし、最近の研究によると、信虎を追放したのは、家臣団の共同謀議であったようです。信虎の力が強固になりすぎたために、トップのすげ替えをもくろんだようです。信玄はその事情を承知のうえで、その話にのったのでしょう。しかし、そののち、信玄の身にも同じ運命が迫ります。信玄の長男、義信と信玄との意見があわなくなり、信玄には、自分ももしかしたら、父の二の舞になる恐れがあるとの不安が生じたのです。その結果、長男は幽閉されてその二年後に自害しました。この結果、武田の家督は四男である勝頼にまわってきました。次男は目が不自由でしたし、三男はすでにこの世になかったのです。しかし、勝頼は、側室の子で、諏訪に長くいたため、家臣の気持ちをまとめることが難しかったようです。それでも武田家を盛り立てようと頑張ったのですが、織田信長によって滅ぼされてしまいました。次男の子孫は、その後も残って武田の血筋を伝えています。信玄の七男は、安田家を継ぎ、上杉景勝に仕えました。そして、諏訪一族も多数の枝葉に分かれて、末代まで受け継がれています。諏訪氏の係累にあたる血族を諏訪神族(諏訪神党とも)といいます。鎌倉時代に諏訪氏が北条氏の御内人となったことから多くの一族が全国に拡散しました。神家一党33氏が代表ですが他にも多数の子孫があります。
一の宮、パワースポットの真実


スポンサード リンク



※著作権は放棄していません。ウェブサイト上の画像・文章などの転載、引用はお断りいたします。